イエス キリストは
弟子達に食べられた?
実際は超恐い「最後の晩餐」!

最後の晩餐の真実とは!?

最後の晩餐は新約聖書に記載されている重要事跡です。

コレはキリスト教会において「主の聖餐」として伝統的儀式になって、
現在に至るまで受け継がれています。

司祭によって聖化された赤ワインとパンはイエス キリストの血と肉になります。

スポンサーリンク

信徒達は、それを食べる事で自らの身体にイエス キリストを取りこんで、
キリスト教会と合体するという儀式です。

死を予期したイエス キリストは弟子達を集合させて最後の晩餐に臨み、
その後、逮捕されて磔刑(たくけい)になったと
大抵の方は、考えていらっしゃるでしょう。

現実問題として、聖書にもそのように記載されています。

ところが最近になって、驚愕の新説が唱えられている事をご存知でしょうか?

哲学者のやすいゆたか氏の話では、
「イエス キリストは最後の晩餐で弟子達に食べられてしまった」そうです。

それでは、現在の新約聖書の『ヨハネによる福音書』に記載されている最後の晩餐で、
イエス キリストが弟子達に語ったと言われている言葉を見てみましょう。

「私は命のパンです。
アナタ達の祖先は荒野でマンナ(神が民に与えた愛の食べ物)を食べましたが、死んでしまいました。
しかし、私は、天から降ってきた生きたパンです。
このパンを食べた人は永遠に生きる。
私が与えるパンというのは、世の中を生かすための私の肉の事です」(第6章46節)

「人の子の肉を食べて、その血を飲まなければ、アナタ達の内に命はありません。
私の肉を食べて、私の血を飲む者は、
永遠の命を得て、私はその人を終わりの日に復活させます。
私の肉はまことの食べ物、私の血はまことの飲み物だからです。
私の肉を食べて、私の血を飲む者は、
いつも私の内にいて、
私もいつもその内にいます」(第6章53節)

要するに新説では、ココで語られているパンとワインが決して比喩ではないと言います。

写真は「Thinkstock」から

イエス キリストは弟子達に食べられた?

キリスト教やユダヤ教において、
フェティシズム(呪物崇拝)は禁止されています。

神を冒涜する行為になるからです。

ですが、キリスト教会の儀式「主の聖餐」では、
パンと赤ワインが聖化されて、
イエス キリストの血肉とみなされます。

この事は、フェティシズムを排斥しておきながら、
パンとワインのフェティシズムを信徒に強制しているわけですから、矛盾しています。

にも関わらず、
「主の聖餐」が現在に至るまで延々と受け継がれているのは、
何が何でも継承しなければならない重要な儀式だからです。

最後の晩餐で実際に弟子達は
イエス キリストの血肉を食べたのではないかと考えられています。

そして弟子達は、
この出来事を比喩として後世に伝える事を選択したのです。

要するに、こういう事です。

捕らえられ、処刑される事を予期していたイエス キリストは、
自らの役割を13人の弟子達に受け継がせる必要性を感じたのですが、
精霊が宿っているのはイエス キリスト本人の体です。

ですので自らの血肉を弟子達に食べさせて、彼等に憑依しようと試みた可能性があります。

 

三日後の復活って何?

それでは、イエス キリストが実際に弟子に食べられたのであれば、
三日後に復活したというエピソードをどのように捉えれば良いのでしょうか?

新説では、
イエス キリストの血肉に宿る聖霊が、
まさしくそれを食べた弟子達の体内に入って、憑依したそうです。

そうしたところ、イエス キリストの人格は弟子の人格を圧倒してしまい、
弟子達はイエス キリストのように語り出したのです。

最後の晩餐を経験した弟子達は、
既に「自分自身は神の子を食べて、神の子と一体化している」と信じ込んでいるので、
全能感が異常なほどに高まって、
集団催眠にもかかりやすくなっています。

そして彼等はイエス キリストの復活を渇望しているので、
イエス キリストと似たような行動や言動をする他の弟子を目にして、
イエス キリストが復活したと信じこみやすい状態にあったのです。

そうです。

全てはイエス キリスト自らに宿る精霊を13人の弟子に移して、
効率的に布教活動を継続していこうという
イエス キリストの作戦だったのです。

イエス キリスト亡き後、弟子達が捕らえられて、度重なる拷問を受けながらも死ななかったという逸話があります。

この逸話はイエス キリストの聖霊が憑依していたからこそ可能な現象だったのかもしれません。

写真は「Thinkstock」から

昔からあった
キリスト教の犠牲(いけにえ)の儀式

さて、ここまで読んで、
最後の晩餐に
犠牲(いけにえ)の発想と共通するものがあると感じた方もいらっしゃるのではないでしょうか?

一人の「清らかで霊感の高い」人間が犠牲になる事で、
災いを防いで、鎮める・・・

更に、そのような「清らかで霊感の高い」犠牲(いけにえ)を食べる事で自らの霊感も強くなるのであれば、
儀式的カニバリズムとの関連も生じてきます。

実を言うと、聖書と犠牲(いけにえ) ・カニバリズムの発想は、決して無縁ではありません。

旧約聖書の創世記には、
アブラハムが不妊の妻サラとのあいだに年老いてからできた愛する一人息子を犠牲(いけにえ)に捧げるように
神ヤハウェから命じられた、という記載があります。

ヤハウェがアブラハムの信仰心を確認するための試練だったのですが、
イサクを犠牲(いけにえ)として捧げる事はしませんでした。

この事は「神が望むのであれば、たとえ実の子であっても犠牲(いけにえ)として差し出さなければならない」という考え方があったという事です。

又、キリスト教においてカニバリズムが行われたのは最後の晩餐に限った話ではありません。

たとえば、
日本の隠れキリシタンから派生した「クロ教」という集団では、
最近まで儀式的カニバリズムが存在していたそうです。

言うまでもなく、
コレらの犠牲(いけにえ)や儀式的カニバリズムは、
イエス キリストのように自ら率先して犠牲を申し出たわけではなく、
嫌がっている人を強引に連行する事もあったのです。

 

バチカンやイギリス教会による、
児童殺人儀式の疑惑も

そして実を言うと、
儀式的カニバリズムが最近までバチカンで行われていた、という暴露話もあります。

『月刊ムー』によると、
2013年2月25日、
ベルギー ブリュッセルにある国際慣習法裁判所の法廷が、
当時のローマ教皇やイギリスのエリザベス女王らを含む30人の被告に、
カナダの先住民族であるモフォーク族の少年少女に対する誘拐 拷問 殺戮 死体遺棄の疑いで懲役25年(仮釈なし)の判決を下しています。

写真は「Thinkstock」から

法廷では複数の証人が彼等の犯罪を証言しました。

資料によると、
ローマ カトリック教会とイギリス教会は、
1960年代からモフォーク族の児童を拉致して、犠牲(いけにえ)にする儀式を敢行していたそうです。

更に、児童に拷問をしたり、
霊的パワーを高めるためのカニバリズムも行われていたという噂があります。

結局のところ、
裁判にローマ カトリック教会並び、イギリス王室が出廷する事はありませんでした。

国際慣習法を破ってもその事を罰する機関が存在しないので、
真相は全て闇の中です。

ですが、
コレが真実だとしたら、
まさしく最後の晩餐が犠牲(いけにえ)や儀式的カニバリズムに形を変えて、
最も悲惨な形態で現在まで継承されてしまった事になります。

最近はバチカン内部から様々な暴露情報が出てきます。

ひょっとしたら真実が白日の下に晒される日は近いかもしれません。

スポンサーリンク

おすすめの記事